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株式会社ウラタ様 スポンサー10周年企画

地域リーグクラブと地域に根差す企業が共に歩んだ10年
都並敏史(ブリオベッカ浦安監督)×浦田一哉(株式会社ウラタ代表取締役社長)

宇都宮徹壱ウェブマガジンとの共同企画

5月14日、千葉県浦安市にあるブリオベッカ浦安競技場で、関東リーグ1部前期第5節、ブリオベッカ浦安対南葛SCが行われた。

試合の主導権を握ったのは、積極的な補強で注目を集める南葛。対するブリオベッカは、GK谷口裕介の好守もあってスコアレスの状況を作ると、後半31分とアディショナルタイムに井上翔太郎が2得点を挙げる。試合は2−0でブリオベッカの勝利。関東リーグの先輩格としての意地が感じられる試合内容だった。

さて、強豪揃いの関東リーグにあって、ブリオベッカの成り立ちは実にユニークだ。そのルーツをたどると、1989年に設立された浦安JSC(ジュニア・サッカークラブ)に行き着く。幼児、小学生、そして中学生を対象とした、純然たる地域の少年団。それは、浦安市に誕生した最初の中学生のクラブチームでもあった。

その後は子供たちの成長に合わせて、1991年にユースチーム、2000年にはトップチームが相次いで創設される。このうちトップチームは、千葉県3部を降り出しに着実なステップアップを続け、2012年には関東2部に昇格。トップ、U-18、U-15を浦安SCと改称する。今からちょうど10年前の話だ。

この10年の間に、関東1部昇格(2014年)、JFL昇格(2016年)、そして関東1部への降格(2018年)を経験。現クラブ名となったのは、2015年のことである。

ブリオベッカ浦安というクラブを語る上で、欠くことのできないキーパーソンは3人いる。まず、現クラブ代表の谷口和司さん。谷口さんは当初、保護者として浦安JSCと関わっていたが、やがてトップチームのことも気になるようになり、55歳の時に勤めていた外資系企業を辞して法人化し、代表取締役となっている。

次に、元日本代表で現監督の都並敏史さん。3つのJクラブを率いた経験を持つ都並さんだが、今は「ブリオベッカに関わることがとにかく楽しい」とのこと。現場の指導のみならず、育成年代のサポートやスポンサー集め、さらには広告塔としての役割も自ら買って出るほどである。

谷口さんと都並さん(当時はテクニカル・ダイレクター)については、2016年に上梓した『サッカーおくのほそ道』に詳しく言及しているのだが、実はもうひとりのキーパーソンがいることを最近になって知った。それが、株式会社ウラタの代表取締役社長、浦田一哉さん。この人がクラブと関わるようになったのも、ちょうど10年前であった。

株式会社ウラタは、建設の企画、設計・施工・リフォーム・リノベーション工事の総合建設企業で、本社は浦安市にある。二代目社長である浦田さんは、会社経営と同じくらいに「地域社会への貢献」を追求しており、その延長線上にブリオベッカ浦安があった。最初はいちスポンサーであったが、現在はゼネラル・アドバイザー兼後援会長として、深くクラブにコミットしている。

ハーフウェイカテゴリーのクラブと地元企業との関係は、これまでの単なるスポンサーフィーのやりとりから、より価値観や方向性を共有してゆく傾向にシフトしているように感じる。その具体的な事例をご紹介するべく、都並監督と浦田社長による対談を無料公開することにした。

ブリオベッカ浦安のサポーター、関東リーグファンはもちろん、都並さんの現役時代を知るオールドファンには「狂気の左サイドバック」の現在地を知っていただければ幸いである。(取材日:2022年4月26日@浦安。構成協力:五十嵐メイ)

■ブリオベッカ浦安を街の誇りに

──今日はよろしくお願いします。まず都並監督にお伺いしたいのですが、ブリオベッカ浦安の最初の接点というのは、いつ頃の話ですか?

都並 今から30年以上前の話です。読売クラブ時代のユースの仲間に指導者を目指している人がいたんですよ。何度か顔を出しているうちに、浦安JSCの派遣コーチとして関わり始めたのがきっかけです。

──当時の浦安JSCの印象は、どのようなものだったでしょうか?

都並 自分が育ってきた読売クラブと同じような組織が、浦安にあるのを見て「素晴らしいな」と思いました。息子の入団をきっかけに、最初は保護者としてのお付き合いでしたが、最終的には僕からお願いして仲間になりました。

──これはおふたりへの質問ですが、ブリオベッカ浦安が街にとってどんな存在になってほしいとお考えでしょうか?

都並 市民が街にあるサッカークラブを誇りに思い、毎日のやる気を生み出す存在になり、応援してくれる街の人たちの共通の話題の中心にサッカークラブがある。僕はベガルタ仙台で、サッカークラブがそんな存在になり、さまざまな人に幸せが訪れるという経験をさせていただきました。なので、ブリオベッカを強くして、良い選手を輩出していくことで、街の人の誇りになってもらえたらと思っています。

浦田 まさに今、都並さんがお話した通りのことですが「浦安=ディズニーランド」ではなく、街に対して一緒に応援できるようなコンテンツがある。そうなることで、街に帰属意識が高まると考えています。

ウチの会社は、建物を作るのが仕事ですが、建てて終わりではありません。そこに人が住んで、使ってもらうことで初めて価値が生まれる。同じようにスポーツコンテンツ、とりわけ裾野が広いサッカーというスポーツが街にあることで、街の価値が上がっていくと考えています。

──先ほど「街の人の誇りになってもらえたら」というお話がありましたが、実際のところ浦安市民からどのくらい、ブリオベッカは認知されているんでしょうか?

浦田 スポンサーを始める時には、浦安市出身の僕でさえも、地元にサッカークラブがあったことを知らない状況でしたね。33年の歴史がありますが、ブリオベッカ浦安というサッカークラブが地元にある、という認知度が高まってきたのは最近の話。ビラ配りを始めた最初の頃は、フットサルチームのバルドラール浦安と勘違いされることもありましたが、現在の市民の認知度は40〜50%くらいという肌感覚です。

──ずっと、都並さんが広告塔になっているイメージでしょうか?

都並 もちろん、僕はそのつもりです。ビラ配りをしていて、気がついてくれない時は「解説でお馴染みの都並敏史です!」と話しかけると、下を向いて居る人たちが「あ、本当だ!」と気がついてくれますよ(笑)。

普段、練習している場所は、人が多く通る場所にあるわけではない。ですので、クラブを日常的に見かけるということがありません。街のど真ん中で練習していれば「いつも練習している人たちだね」となるかもしれませんが、立地上なかなか難しいですね。

■ブリオベッカ浦安と株式会社ウラタの幸せな関係

──株式会社ウラタとして、ブリオベッカ浦安のスポンサーを始めてからは、どんな変化を感じていますか?

浦田 うちの会社は、ブリオベッカ浦安のスポンサーをするようになって、CSR(企業の社会的責任)というのを意識するようになりました。Jリーグのスポンサーというのは、昔は広告という概念で行われていましたよね。われわれの場合、正直なところ広告効果というものはなく、漢気(おとこぎ)だけです。

その漢気というものは、その地域を会社として支えていこう、という考えから生まれてくるものだと思っています。うちの会社には、利益の一部を社会貢献に使っていこうという指針があります。街の価値を上げていくためにも、ブリオベッカの活動を支援しています。

都並 こんな風にサッカー愛、クラブ愛をもった企業の代表の方が増えていくと、日本サッカーにとって、非常にプラスになりますよね。本当にありがたいことです。

──加えて株式会社ウラタは、ブリオベッカ浦安のジョブスポンサーでもあると伺いました。ジョブスポンサーを始めた理由を教えてください。

浦田 ジョブスポンサーを始めた理由は大きく2つあります。まず、クラブだけでは選手に十分な給料が払えないこと。そして、サッカーをやりながら、社会人としての品格やスキルを覚えるべきだと思ったこと。

実際、サッカーを辞めた後の人生の方が長いわけです。「サッカーしかやっていませんでした」という状態で社会に出ようとすると、非常に苦労してしまいます。そうならないためにも、社会に出る時の緩衝材にうちがなれればと思い、ジョブスポンサーを始めました。

──都並さんは監督として、ジョブスポンサーにありがたみを感じるのは、どのような部分でしょうか?

都並 「心・技・体」とよく言いますが、技と体はあっても心がないという選手が、意外と多いんですよ。最初から「心・技・体」そろった状態でなければいけないが、そうではないところに、まだまだ日本サッカーの育成に課題があると感じます。そんな中、ジョブスポンサーの企業で働かせていただけることで、社会人として鍛えられます。「心・技・体」の中で、足りていない部分を埋めていただいている実感が持てています。

──なるほど。浦田さんと都並さんの間で、業種を超えた組織論、育成論を語り合ったりすることはあるんでしょうか?

浦田 僕はゼネラル・アドバイザーの肩書もあるので、月に一度は全体会議で都並さんと顔を合わせています。そこで組織論や育成論を語り合うことは、ほとんどありません。ただ、普段の練習を見に行って感じることの中には、実際に経営に直結する部分が間違いなくあります。

──具体的には、どんな部分でしょうか?

浦田 例えば、選手のポジションを変えたら、それまで上手くいっていなかったのが生き生きプレーするということがありますよね? つまり同じ人材でも、起用方法で本人の働きが変わってくるという気付きがありました。それから会社経営の面でも、サッカーと同じように、攻め時と守り時がある。社内でも「失点は最小限に」と言ったりしていますね(笑)。

都並 僕は浦田さんから、ある言葉をいただいて考えを変えた経験があります。それは「選手をレールに乗せてあげると、スッと走りだすことがある」という言葉でした。

──それはサッカーでは、どう置き換えられたのでしょうか?

都並 例えば大卒選手で、関東リーグからJリーグにいける確率は、非常に低いという現実があります。一方で僕には、普通のサッカー少年からここまで育ってきたという自負があるので、誰にでもその可能性があると思っています。でもだからといって、僕が一方的に「今からでもJリーグを目指してトレーニングしろ!」と言っても伝わらないわけですよ。

浦田さんから「選手をレールに乗せてあげる」という言い方をされた時、どういうことだろうと自分で考えたんです。そこで気付いたは「今の努力はJリーグという舞台に届かなくても、今後の人生に生きてくることなんだよ」と伝えることが、選手たちのやる気を引き出すことにつながるということでした。そこからですよ。選手に伝えるときの言葉を変えてみたら、目を輝かせて話を聞いてくれるようになりましたね。

■未来のブリオベッカ浦安に思いを馳せる

──スポンサー企業の社長さんとクラブの監督が、教え教えられという関係性を築けているというのは、なかなかない話ですよね?

都並 本来は、そういう関係であるべきだなと思います。とはいえ、僕もJクラブの監督をしているときは、そこまで余裕がありませんでした。監督も人間を扱う職業ですが、30人弱の組織をまとめるのと、その何倍にもなる組織をまとめている企業の社長さんとでは、やっぱりレベルが違いますよ。経営者の心得を直接聞ける機会というのは、なかなかないですよ。Jクラブの監督さんたちにも、ぜひ理解していただきたいですね。

──いろいろお話が尽きませんが、株式会社ウラタとブリオベッカ浦安が歩んだ10年について、あらためて振り返っていかがでしょうか?

都並 一言で表すと、幸せいっぱい(笑)。このクラブのエンブレムを付けて、監督の仕事ができる素晴らしさは格別です。そのきっかけをいただき、恩返しがしたいと思いながらも、僕が監督になってからは結果が出せていない歯痒さはあります。それでも間違いなく、幸せいっぱいにやらせていただいています。

──まさに、幸せが伝わってくるコメントでした(笑)。浦田さんはいかがでしょう?

浦田 僕と都並さんの出会いは、実はブリオベッカではなく、日本サッカー名蹴会の理事をしている時だったです。その当時もスポンサーではありましたが、練習も試合もまだ見に行ったことがなかったんですね。たまたま練習に足を運んでから、僕の人生の歯車が狂ってしまいました(笑)。

この10年を振り返ると、クラブはいい時期も悪い時期もありました。スポンサー数も拡大したり、縮小したり。ただ、ブリオベッカの活動に関わり、仕事以外の経験をすることは、自分にとって良い栄養素になったと思います。自分がさらに成長するためにも、サッカーというスポーツに関わり続けるということは素晴らしいことだなと思いました。

──最後の質問です。おふたりは今後、ブリオベッカ浦安とどのように関わっていきたいですか?

都並 僕は、一生を共にするつもりでブリオベッカ浦安に入りました。今は監督として、チームを強くすることに注力していますが、監督を辞めたとしても、育成に携わりながら素晴らしい選手を輩出したり、地域の皆さんとサッカーを通じて交流を深めたりしていきたいと思っています。

日本代表だった僕が、地域の部活動の指導者や地域に住む方々と交流を深めることができれば、それはクラブにとっても効果的だと思います。僕自身、地域の誇りにクラブが変化した時の素晴らしさを経験しているので、ブリオベッカ浦安がそんな存在になるように突き進んでいくサポートをし続けていきたいと思っています。

浦田 本当にその通りだと思います。僕たちは「人間力」という言い方をしますが、競技技術以外の部分もいかに高めていくかというのは、僕たちがずっと追い求めなければいけない部分です。「さすがは子供の頃、ブリオベッカでサッカーをやっていただけあるよね」と言われるような選手を、1人でも多く輩出できるようなクラブにすることが、僕の夢ですね。

──浦田社長、都並監督、本日はありがとうございました。